下記に掲載するのは、「奉納 翁」(2011)、「談山能」(2012〜2016)を振り返った談山能実行委員会による総括文です。

能の「源流」は多武峰にあり――談山能を振り返って

 冒頭から私事で恐縮だが、筆者が通っていた高校は奈良盆地を南に見下ろす高台にあった。校舎の窓からは東大寺・興福寺の伽藍をはじめ、竜王・三輪の山並み、さらに天気の良い日には金剛・葛城の峰々までもが一望でき、それらの山に囲まれた大和盆地が箱庭のように見えたものであった。談山神社の鎮座する御破裂山はちょうど学校の真南に位置し、標高こそ六百メートルを少し上回る程度であったが、奥深い吉野へ通ずる異界の入り口といった趣で、容易に人を寄せ付けない雰囲気があった。


 筆者の高校在学時には、その談山神社で、確か「談山能」「青葉能」と称する野外能の催しが定期的に催されていたように記憶している。しかし、十年ほど続いた後、談山能もいつしか立ち消えとなり、しばらくの間、談山神社で能が催されることはなかった。その後、大倉源次郎氏が、多武峰山麓の折居の地が鼓胴の一大生産地であることに大きな関心を持たれ、鼓の奉納演奏とワークショップを談山神社で始められた時には、近い将来、「談山能」が復活することを大いに期待したものである。それから数年後の平成二十三年五月、談山神社権殿(旧多武峰常行堂)での観世清和氏による〈翁〉奉納が実現し、期待は現実のものになった。ここにいたるまでには、源次郎氏の人並み外れた行動力と、氏の人徳を慕う多くの人々のサポートが不可欠であったことは、あらためて言うまでもなかろう。


 この翌年から、「談山能」と称する催しが毎年行われるようになる。名称こそ、昭和六十年代以降の「談山能」と同一ながら、旧「談山能」が権殿前の階段下の広場を舞台とする野外能であったのに対し、新生「談山能」は権殿の非常に狭い堂内で行われた。会場に入ることが出来た観客はそれこそ百名そこそこだったのではなかろうか。かつての須弥壇上に設けられた舞台は、観客が手を伸ばせば届くような近接した位置にあり、あたかも観客自ら脇座に座って能の世界と一体化するような不思議な体験は他に代えがたいものであったし、演者の緊張感もビシビシとこちらに伝わってきた。この一体感と緊張感こそが、新生「談山能」の大きな魅力であったことは間違いない。


 もう一つ、新生「談山能」の大きな特徴として、かつて常行堂(権殿)の後戸(うしろど)に安置されていた翁面が常に話題の中心にあったという点が挙げられよう。そもそも、「談山能」復活の契機となった平成二十三年五月の〈翁〉奉納は、常行堂の翁面を用いて観世清和氏が〈翁〉を舞うというのが一番の呼び物であった。奉納の前日にはその翁面に関するシンポジウムも開催されたが、新生「談山能」では、東京大学の松岡心平氏を中心メンバーとする、この手の研究的なイベントが度々行われ、参加者がともに「能とは何か」「〈翁〉とは何か」を考える機会が設けられた。それらの企画を通じて、催しに参加した全ての人々が、多武峰と能との関わりについて理解を深めることになったのである。これまた、新生「談山能」の大きな特徴であった。


 そこで話題に挙がったことの一つに、多武峰所属の猿楽座である外山座・結崎座がともに寺川の下流域にあり、その寺川の源流が他ならぬ権殿(常行堂)に隣接するという興味深い事実である。筆者もかつて寺川と初瀬川の下流域に猿楽座が展開していることに着目し、「水がかりで結ばれる猿楽集団の共同意識」について考えたことがあるが(「奈良能楽史探訪(4)」『観世』平成二十二年十二月号)、ここであらためて付言すれば、観世・宝生の上掛り、金春・金剛の下掛りという区別も、おそらくはこの水がかりの共同意識と深く関わりがあり、そのベースには「水」および「水」を司る「龍神」「天の神」への信仰が抜きがたく横たわっているものと思われる。実際、権殿(常行堂)のすぐ際には龍神を祀る小さな祠が建ち、今も清水をたたえているし、能のもう一つの「源流」たる初瀬川の上流に鎮座する滝倉神社をめぐっても、世阿弥の『申楽談儀』に、大和猿楽の遠祖・秦氏安の芸能が初瀬滝蔵権現の神慮に叶ったとの伝説が伝えられている。これまた、猿楽の龍神信仰を物語るものと言えよう。そして、このことは、金春家の翁面がかつて「天の面」と呼ばれていた事実、あるいは近世、奈良で盛んに行われた雨乞いの御礼踊りを「南無天躍(なもでおどり)」と呼んでいた事実とも響き合う。「南無天」は一般には「南無阿弥陀仏」の転訛とされるが、大和における「水」の信仰を踏まえるとき、必ずしもそうとは言い切れないのではなかろうか。


 新生「談山能」は、平成二十八年五月の六回目の奉納を最後に、一応の区切りが付けられることになった。しかし、大和盆地を潤した川の源流が途切れることなく続いているように、いつかまた「談山能」が再生することを、私は信じて疑わないのである。


神事としての能

 「多武峰における能は、すべてこれ神事であります。」ー私は「談山能」の開演にあたり、はじめの宮司挨拶として、この呪文のような言葉を毎回繰り返して来た。いわゆる多武峰にて演じられる能は、祭神・藤原鎌足の巨大な異霊を鎮めるための祭りであったということだ。能が神事であるということは、すでに、金春禅竹がその著書『明宿集』に「法(八)講の神事」と書き記している。談山神社の本殿をはじめ、全山に祭られているかずかずの神殿の神々は、鎌足の化身としてマンダラ化して渦巻いている。能によってこれらの神々は感応して、その御稜威を増大せしめる効果をもたらすこともあった。

 ところで、実際に「談山能」が演じられる重要文化財の常行堂(現・権殿)の須弥壇の背後には、「後戸」と呼ばれる異空間が今も現存している。ーこの神秘の闇の空間の中に祭られる当社所蔵の白色尉(桃山時代)の翁面は、その面箱に「摩多羅神」と墨書されている。天井裏のうつぼ舟のような形態を持った後戸に祭られることによって、この面に霊魂が這入り込み、時間が経つにつれて、その霊魂はいよいよ増大してくるのであった。それは、霊魂信仰からすれば、面じたいが巨大になって膨らみ、後戸に填まりきれないくらいになるということだ。信仰上の幻視からすれば、填まり切れないものは、ついに破裂するのである。それは、鎌足の霊魂がその怒りによって神身を巨人化し、ついに爆発、破裂するという「多武峰御破裂異変」に等しいものになって来る。これらを鎮め、慰め、怒りを解くためにも、能の神事が必要になって来るのだ。

 室町時代から現在までも連綿と続く、秋の「嘉吉祭」(奈良県指定無形民俗文化財)には、かつて能をはじめ、かずかずの芸能が奉納されていた。嘉吉祭の起源を考えると、これは狂気の足利将軍義教暗殺の呪詛が完了したお祝いの、報賽(帰り申し)の神事であったから、この悪霊を鎮撫するためには当然、神事の能が必要だったわけである。悪霊は放っておくと、祟りをなす。多武峰の信仰は、鎌足信仰を中心に、なかなかやっかいに複雑に絡み合っている。日本宗教史の中で多武峰が極めて異質なのはいうまでもないが、このような環境の中で発生した多武峰における神事の能もまた、異質であったというあかしではないだろうか。