下記に掲載するのは、「奉納 翁」(2011)、「談山能」(2012〜2016)へのご来場のお客さま、出演者からの感想文、ならびに談山能実行委員会による推薦文です。

談山神社の翁

昨年の初夏、談山神社の摩多羅神面で観世のお家元が演じられる『翁』を拝見に多武峰までうかがった。前日のシンポジウムで、摩多羅神面と星辰信仰についてディープな学説を拝聴して、「なんだかよくわからないけど、すごいものが見られそうだ」という期待が高まって、談山神社までバスで移動して、関係者の宴席に連なった。

 私の隣の席は渡辺守章先生ご夫妻であった。渡辺先生は大学1年生のときの教養のフランス語の担任であり、私は先生からC評価(「出来ないねえ、君は」という意味の評点である)を頂いたトラウマ的経験があるので、本来ならご尊顔を拝見するや走って逃げ出さなければならない立場なのだが、座敷で隣席ではそうもならず。ただ身をすくませてもっぱら奥様に献酬して旧悪を糊塗した。

 翌日の能は、輝くような新緑に包まれたほの暗い堂内で演ぜられた。

 『翁』はこれまでずいぶん数を見てきたが、この談山神社でのお家元の翁は、比叡山の根本中堂で蝋燭の灯りの中で見た梅若六郎先生の翁とともに、『翁』という芸能の原点に触れるという点では個人的には忘れがたい経験であった。

 『翁』を見ると、能という芸能が発生的に呪鎮と祝福のための儀礼であるということがよくわかる。能は人間の住むこの世界と「彼岸」の「あわい」に見所の人々をいざない、私たちの暮らすこの世界がどのような土台の上にゆらゆらと不安定な仕方で載っているのかを開示してくれる。

 世界の外部からは「人知をもってははかりがたいもの」が繰り返し訪れる。それは悪鬼や邪霊の恐るべき侵襲というかたちをとることもあり、天神地祇や霊的な贈与者の友好的な来訪というかたちをとることもある。境界線に立つもの(シテ)は、そのような「外部からの訪問者」を歓待し、受容し、「それ」にいっとき身を委ねて、わが身を通じて思いのたけを語らせ、ある種のカタルシスを成就したところで、お引き取り願うことを本務としている。だから、シテは異界からの訪問者に対してひろびろとした開放性を示すと同時に、「境界線を守る」という絶対的な職責を果たさねばならぬ。その相矛盾する要請が『翁』のシテを引き裂き、つねならぬ緊張感をもたらす。

 談山神社の『翁』を見ながら、私はそんなことを感じていた。

 能が終わったあと、堂外の青空と鮮やかな緑の世界に戻ったときには、ひどく放心していたので、いったいそれから多武峰からどういうふうにして家まで戻ってきたのか、記憶がいまだに曖昧である。

平成23年の翁奉納に参列して

平成23年5月16日、奈良多武峰はまぶしいほどの新緑に覆われ、談山神社境内にはあざやかな躑躅の花と女性たちの日傘が色を競うように咲き乱れていた。その日、神社にながく眠っていた摩多羅神面が開帳され、当代の観世宗家がこれを掛けて〈翁〉を奉納すると知り、全国各地からファンが集っていたのだ。

〈翁〉は、改修なったばかりの常行堂(権殿)で奉納される。使用する摩多羅神面は、常行堂のご神体として、奥の「後戸(うしろど)」に数百年しまわれていたものだ。実際に奉納に使われるのは室町時代以来とか。観世流の宗家がこの地で舞うのも400年ぶりくらいらしい。

わたしたちは奉納翁を〈観る〉というよりは、その現場に〈立ち合う〉といった気分で、お堂の太い柱の陰に身を寄せていた。外は汗ばむほどの陽気なのに、堂内はひんやりと涼しい。息をひそめて待っていると、やたらと小鳥のさえずりが聞こえて豊かな山に抱かれていることが実感される。

明治の廃仏毀釈で神社となる以前、ここは〈妙楽寺〉という藤原家の菩提寺だった。猿楽との関わりは深く、毎年、藤原家の祖鎌足を供養する〈維摩八講会〉には、大和猿楽に属する全員が必ず参勤して能を演じており、畿内にいながらこれを怠った者は一座を追われるという厳しい掟まであったそうだ。

けれどその後、猿楽師たちは京や江戸へ移り住むようになる。寺は廃され、神社となった。祭神となって残った鎌足の像は、猿楽師たちのやってこなくなった山で幾春秋を過ごしてきたのだろう。

その鎌足像が、綺麗になった常行堂に仮座しておられた。観世家の末裔がそちらに向かって額ずき、〈翁〉を舞う。摩多羅神面は現行のものよりかなり大ぶりで、宗家の小顔はすっぽり隠れてしまう。

そのとき、入口に掛けた幔幕が引き落とされるほどの突風が一陣、堂に吹き付けた。けたたましい物音だった。

あれは摩多羅神が面めがけてやってきて宿ったものだろうか、あるいは鎌足さんの霊が「久しぶりじゃのう!」と豪快に笑ったものだろうか、いずれにしろわたしたちのあずかり知らぬ次元で何ごとかは起きている。よくわからないけれど、神さまも仏さまもなにやら嬉しそうだと、それだけは感じたことだった。

初めて鑑賞させていただいた能で、しかも観世宗家の舞でございましたのでなおさら
言葉にはなりませんが、幽玄の世界に浸らせていただきました。
常行堂という場所柄もありご神体の前での舞は神(世阿弥)が降臨するかの如く、
その前に私共居合わせれたことが光栄の極みでございました。

奉納翁公演の準備段階から参加させて頂き、
会場となった権殿の全面改修工事や摩多羅神面が納められていた場所なども、
事前に拝見する機会を得ました。
そのような体験の下、翁奉納の場に立合わせて頂き、中世の多武峰でおこなわれていた
修正会の雰囲気と霊気を感じました。
平和と五穀豊穣の願いを再確認到しました。
『鼓の里』としての桜井も、多くの方々に知って頂きたいと思っております。

平成23年5月16日に多武峰談山神社の権殿で奉納された翁は千載一隅の翁であった。
権殿の狭い空間に観客と舞台が同一平面上に、ごく接近してあり、
観客も翁奉納の一員として参画している気持にさせられた。
当日は藤原鎌足の神霊が権殿に仮安置されていたことも手伝って、
神に奉納する翁本来の厳粛さに満ち溢れていて、演者も観客も一心になったようであった。


翁という神、伊勢の神、そして復讐の鬼 ―『翁』『絵馬』『恋重荷』―

 このたびの「多武峰談山能」の場となる権殿は明治の神仏分離以後の名称で、もとは常行三昧堂(常行堂)と呼ばれ、そこでは平安時代以来、年頭の修正会に比叡山の円仁が唐から将来した常行三昧の修法が室町時代まで行われていた。多武峰では、能は十月の維摩八講会のおりに演じられていて、常行堂では能は演じられることは無かったが、年頭の修正会の3日と5日の夜に、翁面を着けた堂衆が祝詞を唱えたり、能の『翁』に酷似した文句が謡われたりする作法が行われていた。その堂衆による翁の作法は、『翁』という文化史的にも貴重な遺産の成立を解明するに絶好の材料となっている。

 今回の『翁』は、昨年5月の観世清和氏の奉納の時と同じ、翁と千歳だけで構成される「多武峰式」という略式の演式で演じられる。『翁』の略式には、世阿弥時代から有ったらしい翁だけの「一人翁」、明治初年に考案された、翁と三番叟の鈴の段で構成される春日若宮のおん祭の「神楽式」などが有るが、この「多武峰式」の先縦としては、寛永11年(1634)に、江戸山王社で催された将軍家光病気平癒祈願能で喜多七大夫が最後に舞った三番叟なしの『翁』がある。『翁』は翁という神による天下泰平の祈念を内容としているが、それは『翁』を生み出した修正会の目的とも合致している。

 『絵馬』は、絵馬を社殿にかけて新年の天候を占う伊勢の斎宮の神事の場を舞台に、天照大神や天の鈿女と手力男が、天の岩戸の居士を再現して、天下泰平を寿ぐ脇能。天照大神は「中之舞」、天の鈿女は「神楽」、手力男は「神舞」を舞う、今回はその後場を中心とした舞囃子。

 『恋之重荷』は身分違いの恋のため、恨みを抱いて死んだ老人が鬼となって、持てるはずの無い錦で包んだ石を持たせて嘲弄した后に復讐しようとするが、最後は后の守り神となるという展開の能。世阿弥の作だが、類曲に、綾を張った鼓を打たせ、老人が最後まで復讐心を捨てない『綾鼓』があります。この『綾鼓』を改作したのが『恋重荷』と思われるが、改作の眼目は、老人の復讐劇だった『綾鼓』を、「恋という思いの深さ」という主題の作品に転換させ、それを重荷で象徴させたことにあろう。后の守り神となるという結末については、唐突で不自然だとする意見が多いが、右のような作意に照らせば、その設定は自然というべきであろう。

謹啓 向暑の候 貴台益々ご隆祥の段御喜び申しあげます。先日はありがとうございました

 さて、拙僧二回目の談山能を拝する機会に恵まれましたこととても嬉しく思います。梅若玄祥さまの「翁」も、かもし出されるオーラが魅力的で、素晴らしく迫力を感じました。また、舞囃子「絵馬」は、神話の情景がとてもリズミカルな旋律に乗って、身体に浸透するような感じになり、と同時に天下泰平であってほしいと願うものであります。

 最後になりますが、神社所有の古面「悪尉」をつけられた観世宗家のお姿、立振舞はお見事!!

山科荘司の亡霊がまさにこの時、時空を超え(彼岸より)常行堂に現れたようで、この堂ならではの演者との一体感がとてもよく感じられました。

 とにもかくにも、お能の世界の話は現在にも通じる人間のままならないもの、人間苦の話のように捉えると拙僧にとりましては、非常に意義深いものとなっております。それゆえ、幼少より気味悪い能面のイメージが、最近では能面の表情が、シテの方を介して我々にほほえんでおられる気がするのでありました。                                                        合掌

 いつまでも印象に残る翁面であった。通常の能面を見慣れている者にとっては異様な大きさ。その空間は能役者でなく御神体そのものが舞っていた。

 去る5月10日、多武峰奉納《翁》(翁:梅若玄祥氏)を拝見することができた。昨年の第一回めもご案内をいただいていたが、すまじきものはの身故参加できなかった。幸いDVD『大和多武峰 奉納 翁』は手に入れることができ、観世清和氏が「もしかしたら先祖は、お前たちの演ってるのはオリジナルと違うとどっかでおっしゃっているかも知れない」と笑いながらおっしゃられているが、さすが宗家だと感じ入り、予習は整えていた。

 本殿での別の催しは何度か拝見しているが改装なった権殿(常行三昧堂)でのものは初めてである。長岡宮司の案内で摩陀羅神面が納められていた後戸も拝めた。服部幸雄氏の後戸の神説(『文学』昭和48年7月号)が一世を風靡し、全国の神社の後戸探しが盛んであった。摩陀羅神という異国情緒をそそる名も学生だった私には神秘的な響きであった。文学散歩の企画で談山神社を提唱し、『源氏物語』研究で著名な清水好子先生が、それなら多武峰少将の墓も見に行きましょうといってくださり、苦労して探し当てたこともあった。そのころ毎年のようにゼミ生を伴って、談山神社を参詣したあと、道なき山道を石舞台まで下りて関西大学飛鳥セミナーハウスまで向かっていた。芭蕉が通ったとされる道を行けばセミナーハウスに行きあたれるのだが、まだ踏破していない。ようやく思い出したかと二階の天井裏(後戸)から何かがささやいたような気すらした。

 いくたびかの戦火により、談山神社には文献はさして残っていないのかと思い込んでいたが、平成16年12月からわずか二カ月強であったが奈良国立博物館でのみ「談山神社の名宝」展が開かれたのはありがたいことであった。パンフレットは絶版である。なお、『談山神社古文書集成』CD-ROM版も出ている。

 八月八日の補巌寺納帳拝見をきっかけとして世阿弥忌研究セミナーが始まり、第一回目は関大飛鳥セミナーハウスを使っているが、能楽学会の組織下になり、世阿弥忌セミナーと改称してからも平成18年に利用している。表章先生も浴衣姿で二次会に参加され遅くまで話の輪に加わってくださった。翌日はバスを仕立てて、談山神社に向かった。文書拝見のあと、表先生が鎌足墓所まで皆さんと登って行かれたのを世話係であった小林健二さんと、先生はお元気だねえとあきれ顔で二人ともひっくり返って見送っていたものである。

 大和四座は、まさに多武峰を中心に成立していたが、鼓の里でもある。アサヒビール創設時の恩人でもある生田秀また耕一父子が集めた百丁ばかりの小鼓は千葉の国立歴史民俗博物館に生田コレクションとして保存されている。鼓は舞台で使用されてこその価値があるので、条件に合う落ち着く先が決まって喜ばしいことである。能楽にかかわる文献類はこれまた御子孫の秀昭氏の御厚意により関大図書館に寄贈された。科研の成果として『新蔵生田文庫蔵書目録并解題』を平成廿一年に出した。なお、秀昭氏は、耕一氏と山崎楽堂氏が著された『鼓筒之鑑定』の改訂版原稿を用意されている。

 宣伝めくが10月14日(日)に明日香村中央公民館での「飛鳥史学文学講座」で「多武峰と能楽」と題して話をさせてもらう。初めて御指名がかかった。関大セミナーハウスは多武峯の麓にあるにもかかわらず、今まで誰も能楽を話題にされなかった。高松塚古墳の発見で古代史は有名になったのだが、もうひとつ大事な視点がありますよといったことを指摘したいと思っている。それが表先生の「多武峰の猿楽」(『大和猿楽史参究』)を辿るだけのものであったとしても価値はあると思っている。

 緑の美しい五月の大和の山をわけいり、談山神社へ。劇場に到着する道筋をも劇にする、という試みはかつての前衛演劇でもなされていましたが、自然の息吹に包まれながらのお能の舞台への旅路は、その原点のようでした。オランダの文化史家ヨハン・ホイジンガは、『ホモ・ルーデンス』(遊ぶ人)で、文化の起源としての遊び(芸能)の始原は「聖なるもの」とのコミュニケーションにあるとのべており、お能の「神遊び」はまさに、ホイジンガのいう文化の源の姿であると常々思っておりましたが、神社という空間でのお能、とりわけ翁は、それを実感できる経験でした。ちょうど、脇柱の斜め後ろくらいの席から観せていただくと、翁がこちらにむかって微笑みとともに歩み寄ってこられたように感じ、おかげさまで、幸せをいただけたように思いました。

 大学時代、観世流のサークルで、学生能『千手』の稽古に平泉・中尊寺の能舞台を使わせていただいた経験も身体によみがえりました。屋外の能舞台は自然との一体感を感じることができ、ちょうど終幕近くにはらはらと小雨が降り、「あれは千手の涙だったんだね」とサークルの仲間と語り合ったものでした。

 中尊寺を含め、東北も少しずつ復興しているようですが、ただ、その歩みはまだ十分でないようです。翁の恵みがぜひ被災地にも注がれるよう、芸能が社会にできることは何か、自然と人のかかわりとはどうあるべきかを、これを契機にあらためて考えてゆきたいと思います。

多武峰談山能陪観記

 学生時代に能楽堂に通い始めて、はや40年になろうとしているが、いつまでたっても傍観者から卒業できない。しかし、ほかの芸能では感じられない凛とした空気が好きで、機会を見つけては出かけるようにしている。この談山能は、二回目の陪観となった。

 舞台は、溢れんばかりの新緑に包まれた談山神社権殿(神仏分離以前は妙楽寺常行三昧堂)だ。奉納に先だって行われた厳かな修祓(しゅうばつ)の神事を見ていると、本来、能が神仏への信仰に基づいた芸能であったことをあらためて気づかされる。

 昨年は、神前に向かって演じられたために、堂内の陪観席はいささか窮屈で見づらい場面もあった。しかし今年は、神殿のなかで鎌足公の掛け軸を背景に陪観席に向かって舞われたために、それを良しとするか否かは意見の分かれるところであるかも知れないが、とても見やすかった。

 最初の梅若玄祥氏の多武峰式「翁」は、通常よりかなり大きめの翁面を用いての迫力ある舞台だった。恰幅のよい氏の姿は、この面との相性がとてもよく、崇高な雰囲気を醸し出していた。

 二番目の「絵馬」は、急遽休演となった片山幽雪氏から九郎右衛門氏が代役をみごとに務められた。 

 「翁」は、南洋の島伝いにやって来た日本文化の源流の面影を遺す遠い過去の神々の姿を、また「絵馬」は、玄界灘を超えてやってきた民族が生み出した記紀神話に取材している。このふたつの神々の舞を、多武峰の神域で陪観できるとは、なんという幸せか。

 三番目の「恋の重荷」は、ご存じ世阿弥が作ったひとの煩悩と霊魂の物語だ。談山神社に遺されている門外不出の面を用いて、観世清和氏がひとを恋うる哀しさを演じられた。

 私が藝大で担当している文化財保存学は、過去の遺産を受け継ぎ、現代に活性化させ、次世代に伝えることを旨としているが、この談山能はそれをみごとに実践しておられる。

 能楽揺籃の地である奈良において、このような催しがおこなわれることは、まことに意義深いことだ。企画・運営に尽力された関係者のみなさまのご苦労にこころより敬意を表したい。

(2012.5.20.)

能の始原に戻ろう –多武峰の能三題– 

多武峰は、能の歴史にとって、とても重要な場所である。

 なぜなら、ここではじめて翁芸が生み出されたかもしれないからだ。

「 翁 」の発生を述べようとすれば、天台系の常(じょう)行堂(ぎょうどう)修正会(しゅしょうえ)とそこに祀られる摩(ま)多羅(たら)神(じん)の考察が不可欠である。

 わけても多武峰は、天台系常行堂修正会の最前衛であり、ここには摩多羅神面とされる猿楽の大ぶりな翁面さえ伝わっている。

 多武峰の「 翁 」を見ることによって、われわれはかろうじて能の始源に立ち戻ることができるのだ。

 今回、翁を舞うのは観世銕之丞であり、千歳は子息の観世淳夫である。

摩多羅神の一つのあらわれである翁面が、銕之丞によってどのような表情を見せるか、大いに楽しみだ。

 葛城山から吉野そして多武峰に至る山岳地帯は、修験文化が栄えるゾーンであり、中世においては南朝の勢力範囲であった。

 観世清和が演じる「 土蜘蛛 」は、葛城山の先住民を象徴するかのような土蜘蛛(シテ)が、源頼光(大槻文藏)に襲いかかる能である。土蜘蛛に使う面は、多武峰談山神社秘蔵の「 赤鬼 」で、これを見るのも楽しみの一つだ。

 葛城山の凶悪な魂をかたどる能が「 土蜘蛛 」だとすれば、能「 葛城 」に登場する葛城の女神はその和魂(にぎみたま)といえるだろう。その舞囃子を梅若玄祥が舞う。

〈 大和舞 〉の小書なので舞は、〈 神楽 〉になるだろう。


談山能新作への思い

今年2013年も大倉源次郎氏の御配慮で談山能を拝見することができた。バスの便がよくなく早目に着いたので、鎌足公の廟所を尋ねることとした。以前、世阿弥忌セミナーで企画した時、皆さんが登って行かれたのを世話掛りだったので、小林健二氏とうらやましく眺めていたことがあった。あのころの表章先生と同じような年齢になったのではないかとの思いを馳せながら、さすがに濡れ落葉を恐る恐る踏みしめながら歩く一人ぼっちの急坂はこたえる。談山と書いて「かたらいやま」と読む。ここで標高566m。山歩きの人情の常ですれ違う見知らぬ人と挨拶を交わしながら、御破裂山標高618mを踏破したことだった。帰りを西入山口に向かおうとしたが、時間が気になり、やむなく引き返した。もう汗だくで、なんとか開始時刻に間に合った。舞台は権殿(後堂)の内部に設けられている。ふと鏡板が白一色であることに気付いた。これでいいのである。神仏は高いところに宿り給うて、やがて人々の中に降りて来られる。室町ごころ(岡見正雄先生)の世界である。何も松でなくともよい。多武峯の周辺は杉である。客は杉林を思い起こせばよかろう。低頭し、お祓いを受け、長岡宮司の軽妙な解説に続き、今回は観世銕之丞・淳夫親子の翁・千歳から始まった。若いころは摩多羅神という異国情緒のある響きに魅せられたものである。のちの宴で摩多羅神面の悉皆調査が翌日行なわれると伺った。材質は檜なのか。杉だったら面白い。神杉。もう結論は出ているであろう。ところで、談山能の特色のもうひとつは、新作能発表の場であった。四位の少将(通小町)や碁の能あるいは道成寺乱拍子などである。さすがに実馬・実甲冑の能は難しいにしてもゆかりの深い曲を次に是非拝見したいものである。


翁の発生

民俗学と国文学が一つに交わる地点に独自の古代学の体系を築いた折口信夫は、この列島に移り住んだ人々が磨き上げてきた文化の中核に、芸能を位置づけています。その芸能のもつ可能性は、猿楽の「翁」、その発生を探究することで明らかにすることができる。人々は、祝祭の直中で、永遠の生命を象徴する仮面を身にまとうことで、人間を超えた存在、森羅万象あらゆるものと一つにむすばれ合う存在に変身することができる。それが、折口信夫の抱いた確信でした。

そうした芸能の神秘を、現代にまで伝えてくれているのが「翁」だったのです。しかも、「翁」は「対」で登場する。白い翁にたいする黒い翁、すなわち三番叟。あるいは、翁面の裏側に存在する鬼面。破壊と構築、畏怖と祝福。日本の神は、そうした二面性を備え、そのこと自体を「翁」が示してくれているのです。「翁」の芸能を担っていた猿楽の徒たちにとって多武峰は特別の場所でした。かならず、多武峰には「翁」を奉納しなければならなかった。しかも、この多武峰の談山神社には、「翁」のもつ両義性、その二面性を体現するかのような謎の神、魔多羅神の名が記された大ぶりの翁面が伝えられていました。

談山能というかたちで、私たちは、日本の芸能史にとって特権的な場所で、特権的な翁面である魔多羅神面をまとった「翁」を目にすることができました。それは正真正銘、「翁の発生」を再体験することでした。芸能がもつ原初の生命が、いまここに甦ってくることを感得することができました。そのような得がたい機会を与えていただいた関係者の皆さまに深い感謝を申し上げるとともに、このような試みが、さらに新たなステージで継続されていくことを心より願っています。

この度大和猿楽にとって大事な場、多武峰談山神社においての「翁 法会ノ式」で三番叟を舞わせて頂けたことは身に余る光栄で、私の芸能人生の中でも忘れられない一ページとなりました。

しかも神社所蔵の伝来の黒色尉を初めてつけさせて頂いての「三番叟」は、私自身、猿楽が生まれた遠い昔にタイムスリップできた感覚になりました。

その「鈴ノ段」は「法会ノ式」の小書により、釈杖をもちいての仏式となる、これまた初めての事で、神仏習合を具現化した貴重な体験でした。

万蔵家の家紋は「上り藤に七宝花菱」。

談山神社と同じ上り藤であることも何かの御縁を感じます。

談山能はこの公演で終了とのことですが、是非もう一度復活するよう願って止みません。